01.
伊藤比呂美さんのエッセイです。この人は高橋源一郎が絶賛しているので読みました。本当は詩が読みたかったのですが、探せど探せど置いてないのでエッセイを読みました。おもしろかったです。おもしろかったというより、もう文章のうまさにびっくりしました。とりあえず開いて、「はじめに――そうよ、かあさんも」の九行目までを読んでください。いきなりノックダウンです。
02.
~ あの伊藤比呂美が、女児を、3人も産み育てることになるとは、神さまのイタズラというか、業というか、輪廻というか。 これは思春期の娘(主に長女カノコ)との格闘の記録です。歴史は繰り返され、カノコは自分を持て余し、かといってそれを表現するすべはまだもてず、悶々とただ「ムカつく」を母に連呼し、ついには摂食障害に。かわいそうですが、どう~~することもできない。 そんな娘に自分の過去を重ね合わせ、共感し、でもそれだけだと現実の生活が立ち行かないし本人のためにもならないから怒鳴りもするし説教もたれる。そして、あ、いま自分が言ってることはかつて自分に母親が言ってきたことだ、と気づいたりもする。 そんな悪戦苦闘の日々がとても爽やかに描かれています。爽やかな理由は、娘の今~~を全部肯定する、してやるんだ、という伊藤比呂美の不惑の覚悟が全編にわたって貫かれているからです。 母親が伊藤比呂美だということが娘さんたちにとって幸せなのかどうかは分かりません。親を乗り越え自立するのが大変そうです。娘さんたちには、是非自分の言葉を見つけてもらいたい、と切に願いたくなりました。~
03.
伊藤比呂美というのは、詩人です。私は、1981年に詩集を手にして、やられてしまったのでした。彼女は自分の性を矯めつ眇めつして、言葉をひねり出していました。 ご多分にもれず私だって「性を矯めつ眇めつ」の時期を過ごしていました。 私が結婚をし親になる頃、彼女はもうひとかどの親になり、中絶、妊娠を高らかに詠っておりました。それは賛歌というよりも惨禍であり、喜べ喜べ神聖に母であることを!という世間に楯突いた、呪詛のことばであり、祈りでありました。
それが不安な新米お母さんを救いました。ワタシ、オカアサンナンダッテ・・・。どうしたらいい?というスタンスです。母である自分や父である夫や異星人である赤ん坊を、またまた独特のやり方でもって矯めつ眇めつして種明かしして見せてくれました。 赤ん坊は、幼児になり、帰国子女になり、小学生になり、離婚家庭のこどもになり、外国人として思春期を迎え、異星人ぶりに拍車をかけます。
もともとカオスの国の住民である詩人は、苦闘しながら摂食障害や思春期特有の「ふきげん」娘達の悲惨な混沌を観察します。さらに、その混沌に苦闘する自分をも観察し、ユーモラスに客観化します。 ろくすっぽ返事もしない不機嫌なこども。 おとうさんを汚がりしかとするこども。
初めての生理をハチャメチャに迎えようとするこども。 なにも食べずにドンドンやせ細っていくこども。 学校でいつもひとりぼっちのこども。 絵本の中の話のように冷蔵庫をからっぽにするこども。 それを泣きながら後悔するこども。
強迫観念のように泣きながら風呂に入るこども。 強迫観念のように風呂に入らず悪臭を撒き散らすこども。 ちょっと想像しただけで胃がもたれそうなヘビーな状況を、こんな風に書けるなんて伊藤比呂美は本当にカッコ悪さが、最高にカッコイイお母さんです。私や娘が泥沼に落ちそうになったら、きっと何度も読み返すでしょう。
ホテルのサイドテーブルに置いてある聖書よりも、もっと力強く私たちの足元を照らしてくれることでしょう。
04.
思春期はなかった・・・なんて人がいるだろうか。ちょっと自分を振り返ってみてほしい。ちょっとした事がうっとーしく、やり甲斐もなく(主に勉教) イラッだたしい。親の言うことなんて、有り難味のカケラもなかった。 この本読んで、実を言うとその頃の自分の気持ちより、親の気持ちをつくづく考えてしまった。 思春期の我が子。口は利かないわ、利いたらクソ憎らしいわ、食べないわ、部屋ン中すっごいわ。でも・・・・子供が苦しみにのたうっているのがわかる。 なのに、どーしてやることもできない。その辛さ! しかし、比呂美さんは おろおろしっぱなしじゃなかった。体当たりで子供に向き合った。なりふり かまわずなんでもやった!!。・・・その結果・・・!!
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